お待たせしました!ランランさんのブログです。
阿吽の呼吸で陛下を支えた、 阿南惟幾氏(1887年2月21日〜1945年8月15日)と鈴木貫太郎氏(1868年1月18日〜1948年4月17日)をご紹介します。
(鈴木貫太郎氏その5※改めてご紹介その①)
皆さま、鈴木貫太郎氏をご存知でしょうか?
お写真からは穏やかそうな好々爺の雰囲気ありつつ、何か懐深さも感じさせる御仁です。
昭和天皇の相談役として静かに佇まう姿や「日本のいちばん長い日」などの映画にて、耳が遠いお爺ちゃん大臣と見受けられますが、実はこの方、阿南惟幾氏と並ぶ魅力ある人物であり、軍人さんでもありました。
日清戦争、日露戦争にて、海戦の訓練の鬼として鬼貫と呼ばれた叩きあげの海軍大将で名を馳せた御仁で、人柄に魅せられた昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり枢密顧問官兼侍従長に就任し、昭和天皇を支え、侍従長として活躍され、更に終戦間近の大変な時期に総理大臣とした御仁でもあります。
鈴木貫太郎氏は、1868年1月18日の、現在の大阪府堺市中区伏尾にて藩士の長男として生まれ、間もなく1871年(明治4年)に本籍地である千葉県の現・野田市に居を移し過ごします。
鈴木貫太郎氏は幼少時から命の危機に直面する事があり、ある時は馬を触ろうとして馬に蹴られ、ある時は川で溺れて瀕死になるという大変な目に遭います。
大人になったら2.26事件で銃弾浴びて瀕死になり、この頃から多難な宿命が伺えます。
鈴木貫太郎氏は海軍を目指し、海軍に入るも、海軍内では薩摩派が幅を利かせ、関東から来た鈴木貫太郎氏は外様として味方から冷遇されつつも努力して行きます。
また、日清戦争に従軍し、第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として戦いに参戦するも、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗し、日露戦争では第四駆逐隊司令に転じたさいに鈴木貫太郎氏の持論だったと言われる、高速近距離射法をものにする為、月月火木金金※(海軍の訓練で言われた休み無しで動く意味。)と、猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれるくらい力を注ぎました。
また、逆境の時にも踏ん張り、筋を通す姿勢が、本人の言葉にある、「正直に腹を立てず撓まず励め」に観られます。※鈴木貫太郎氏の母校である前橋市立桃井小学校の基本目標、校歌の歌詞にも採用されているとか。
そんな努力の鬼である鈴木貫太郎氏は、第四駆逐隊司令として日本海海戦に参加し、ゴツく厳しい敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げて勝利に貢献しました。
この「クニャージ・スヴォーロフ」は、ロシア帝国が誇るバルチック艦隊の旗艦であり、常勝不敗の伝説的な指揮官アレクサンドル・スヴォーロフに由来したという戦艦でした。
※ふと思いましたが、日本は無敵や難攻不落と言った敵に関して強いと感じた次第です。無敵要塞の真珠湾も破り、マレー作戦にての、難攻不落のジットラ・ラインと呼ばれていた防御線突破も然り。また、日本の弱点は慢心と思考停止になると途端に弱くなると思えました。
話を戻しますと、鈴木貫太郎氏は日露戦争にて活躍し、海軍水雷術の発展に貢献します。
一方、私生活で言いますと日露戦争から一緒になった奥様を日露戦争後に亡くされ、その後、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だった足立たか氏と再婚します。
足立たか氏は、なんと同幼稚園の児童を孫に持っていた数学者で教育行政官であった菊池大麓男爵の推薦により、裕仁親王(昭和天皇)の幼少期の教育係を勤めた人物でありました。
ここに鈴木貫太郎夫婦は昭和天皇とのご縁を深く繋げていく事になります。
今回はこれにて。引き続き鈴木貫太郎氏のエピソードをご紹介していきます。
(鈴木貫太郎氏その6※改めてご紹介その②)に続きます。
文責:神奈川県 神奈川のY。