阿吽の呼吸で陛下を支えた、 阿南惟幾氏(1887年2月21日〜1945年8月15日)と鈴木貫太郎氏(1868年1月18日〜1948年4月17日)をご紹介します。
(阿南惟幾氏その6)
阿南惟幾氏は大陸で八路軍と戦ったあと、
語学が堪能な軍人の山脇正隆氏から譲られる形で陸軍次官就任しました。次官とは、府・省・庁等の国家行政機関において、主に長たる官職に次ぐ高級幹部の官職である、とあり、陸軍省の次官・総務長官になります。
日露戦争時代では乃木希典大将と203高地で奮闘した児玉源太郎大将が務めていたところです。
この時の阿南惟幾氏は出る時は厄介払いの如くの対応されましたが、陸軍次官の就任に帰還したさいは帰還を知った将校や職員達に歓喜されたと話があります。
阿南惟幾氏は帰還したさい、ノモンハン事件の結果を聞き、日本の敗北に愕然とします。
ノモンハン事件とは1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争を指します。
モンゴル人民共和国にはソ連、満州国側に日本がついて戦いました。最初は日本軍側が航空戦で数に劣りながらも制空権を握り優勢でありましたが、戦車火砲の力の差が甚だしくあり、結果負けてしまいます。その為、ソ連とモンゴル共和国の主張する国境線はほぼ維持された状態でした。
更に日本陸軍内部では統制取れず、
阿南惟幾氏は危機感を覚え、次官として後始末に奔走します。
阿南惟幾氏は同時期に多田に代わって次長に就任した幼年学校以来の同期で親しかった沢田茂中将と話し合い、「人の和を最優先事項としよう。陸軍省と参謀本部は一体となって難局にあたろう」とし、綿密な協力体制を構築していき、てきぱきと事後処理していきました。
また、先任が手をつけれなかった人事処分について、阿南惟幾氏は独断専行して事件を拡大した軍(関東軍)とそれを抑えることができなかった参謀本部双方に処分を行います。
ほかにも、膠着した日中戦争の指導など難問が山積のなか、阿南惟幾氏は人の話をよく聞き、人情の機微を知り尽くして、抜群の調整能力を発揮します。
その裁量は周囲が皆認めるところとなり、将来の陸軍大臣に!との呼び声も上がるようになる程でした。ただ、阿南惟幾自身は「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」の信条通り、自ら政治的発言をすることはなかったそうです。
その働きに陸軍でも気の難しさが有名であった東條英機氏が惚れて、阿南惟幾氏をぜひ続投で次官をお願いし、阿南惟幾氏も了承して続けます。
しかし、東條英機氏の神経質な程の繊密さと自分にも他人にも厳しく、融通が利かず、全てを自分の裁量で把握しないと気が済まない性質と、
阿南惟幾氏の他者に委ねるとこは委ね、柔軟に対応する気質が次第に水と油で反発しあいます。
決定的に確執したのは、東條英機氏が渾身で作成した戦陣訓を、上司に忖度は無用と、ズバズバと誰に対しても言う石原莞爾氏が批判し、東條英機氏が石原莞爾氏を前線から予備役にした事がきっかけでした。これには、阿南惟幾氏もあたら良い人材を何てことするのだ!!と、日頃の温厚な態度から一変して顔を真っ赤にして東條英機氏に強く訴えます。曰く、
「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか!」と他の将校が見ている前で東條英機氏と激しい議論を繰り広げたそうです。
しかし、東條英機氏は頑として意を曲げず、阿南惟幾氏は皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王にまで働きかけましたが、この恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、石原莞爾氏は師団長を更迭されて予備役に編入されてしまいました。
この件で阿南惟幾氏は東條英機氏に愛想を尽かしてしまい、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていきました。
今回はここまで。次回は当時の陸軍海軍の仲と、大東亜戦争に入り満州で戦う阿南惟幾氏をご紹介します。
その7に続く。
文責:神奈川県 神奈川のY