〜ご挨拶〜
皆さま、こんにちは!神奈川のYことランランと申します。
まー大隊長からの提案で、愛子さまサイトから中四国支部ブログに移籍しました。懐深い中四国支部にお邪魔します。
これから皆さまの皇統クラブ活動や様々な事のヒントになれたらと、先人の背中を、生き様をご紹介したく思います。
特に国の為に死力を尽くした英霊や軍人さんのご紹介、源田実氏や343空など中心に書いていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。
阿吽の呼吸で陛下を支えた、 阿南惟幾氏(1887年2月21日〜1945年8月15日)と鈴木貫太郎氏(1868年1月18日〜1948年4月17日)をご紹介します。
(阿南惟幾氏その5)
「謹厳実直」(きんげんじっちょく)(真面目で誠実な、飾らないさまを表す意味)な性格の阿南惟幾氏は、お上に忖度しない為、軍の上層部から煙たがれて前線へ出されてしまいます。
シナ事変(日中戦争)昭和12年(1937年)に第109師団の前任の師団長が体調不良で交代を要することなったさい、上司の板垣征四郎氏から「誰か候補がいない?」と尋ねられ、阿南惟幾氏は「それでしたら・・・」と何人かの候補を挙げていきます。しかし、板垣氏から「ん〜ちょっとね。」と承認されず、チラと阿南惟幾氏を見ます。
意図に気づいた阿南惟幾氏は自分で立候補すると、板垣氏は「素晴らしい!!」と即承認されます。これは思うようにならない阿南惟幾氏を煙たがり、参謀本部が阿南の更迭を板垣氏に要請し、板垣氏が応じた結果であったそうです。また、阿南惟幾氏は常設師団(エリート)の第5師団の師団長に、後輩の今村均中将を推します。
今村均中将は、後にあの誰に対しても傲慢不遜な輩、いえ、人のマッカーサーから敬意を持たれた、陸軍きっての仁将であり、また日本初の落下傘部隊を率いた人物でした。(自衛隊の空挺団の前身とも言われてるとか)
この人事はいかにも阿南らしい人事と評判となったと話題になったそうです。
人事局を追われるかのような更迭劇であった為、見送りはただ1人という寂しい門出となったそうです。
そんな時、昭和天皇が、出征の門出として阿南惟幾氏を宮中に招き2人きりで陪食しました。これは前例がなかったことで、昭和天皇の阿南惟幾氏を信頼していたという証拠であり、その様子は、昭和天皇と阿南惟幾氏は女官が運んできた松花堂弁当を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んだと言われます。
後に天皇と2人きりの陪食が周囲に知れれば反響が大きすぎるとして、この件は現侍従長の百武三郎大将ほか、ごく一部以外には内密にされたそうです。
阿南惟幾氏はこの時の感激を句にして、この御恩に報いるため、陛下のためなら死んでも構わないと固く決意しました。また、この時詠んだ句が、のちに阿南の辞世の句となります。
「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」
大君への恋闕な想いがひしひしと感じます。
阿南惟幾氏は陛下の励ましを受け、大陸に渡ります。第109師団は、石川県金沢の留守第9師団の担当で新設され、北支那方面軍隷下となり、当時の毛沢東率いる八路軍と戦います。
この時の八路軍は山西軍(※中華民国の北洋軍閥の派閥の1つ。)
とのゲリラ戦で日本をきりきり舞いにさせました。
阿南惟幾氏は鉄道を守備しつつ、持てる知識を用いて殲滅作戦を展開します。兵力不足のなかで鉄道を護るために兵所を沢山設置し、自身は馬で駆け回ります。そこから攻めに転じて兵力が勝る敵軍を包囲して各個撃破しました。この時の阿南惟幾氏は51歳、51歳で戦場を駆け回り戦うという強さを発揮します。ゲリラの得意とする地理の利を封じたり、後に殲滅した理想的な作戦例として、その後教材として使用される殲滅戦例資料にも取り上げられたとあります。
その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝山西省路安城も攻略します。第109師団は約10倍の203,000名の中国軍と交戦し、うち18,400名を戦死させて、2,002名の捕虜を得ましたが、捕虜に対する処置は、阿南惟幾氏曰く、「祖国のため互いに敵味方となって戦ったが、個人としては何の怨恨があるわけではない。今後十分な保護を与えるよう」とあったそうで、阿南惟幾氏の寛大な指示にて捕虜には、食料、甘味品、タバコなど贈り、戦死した部下の慰霊祭を施行するときは、敵軍戦死者の供養塔も立てることも忘れなかったとあります。
阿南惟幾氏の指揮官としての信条は「徳義ハ戦力ナリ」であり、捕虜の対応についてもその信条に基づくものであったそうです。
(ウィキペディア、個人エピソード参照)
今回はここまで、次回はノモンハン事件と東條英機氏との確執までご紹介します。
(その6に続きます。)
文責:神奈川県 神奈川のY