久々のランランさんのブログ更新です。
鈴木貫太郎氏(その4)阿吽の呼吸で陛下を支えた 阿南惟幾氏
引き続き、2.26事件で暴徒の凶弾に倒れた鈴木貫太郎氏をご紹介します。(流血注意です。)
凶漢たちが鈴木貫太郎氏に銃弾撃ち込み、鈴木貫太郎氏が血の海に倒れ、”討ち取った!”と思い、鼻息荒く出ていった後、たか氏が夫に駆け寄ります。
すると、”しっ!”と黙ってろとジェスチャーした鈴木貫太郎氏は完全に凶漢たちが立ち去ったあと、鈴木貫太郎氏はむくりと起き上がり、「おい、賊は去ったかい?」とたか氏に普通に問いかけます。血にまみれながらです。(この時血が出ている当人は能の作用であまり痛みを感じにくいのかもしれません。)たか氏は驚きながら駆けつけた宮内大臣の湯浅倉平氏と手当てする中、鈴木貫太郎氏は慌てずに(致命傷受けています。)湯浅氏に「私は大丈夫です。陛下にご安心下さるよう、宮城へ行って申し上げてください」と声を出すたびに傷口から血が溢れ出されていたとあります。
今度は近所に住んでいた医師が駆けつけ、部屋の中に入ると鈴木貫太郎氏の血の海に足を取られ転びながら畳の上で撃たれた状態のままで横になっていた鈴木貫太郎氏に布団を敷くと、その上に寝かせ、そのまま、後から駆けつけた鈴木貫太郎氏の主治医と共に搬送します。この時、移動がままならずの為か、鈴木貫太郎氏は不用意に動かされ、段々と顔から血の気を引いていき、鈴木貫太郎氏の心の臓が止まったそうです。
鈴木貫太郎氏は三途の川に行き、そのまま川を渡ってあの世に行くか、踵を返して現世に戻るかの瀬戸際になります。2回目の瀕死体験です。
その後、医師たちは真っ青になる中で、反乱軍の包囲網を掻い潜り鈴木貫太郎氏に輸血を取りにいきます。この時、反乱軍に足止めを喰らうも、医師の知り合いがいた為、見逃してもらい、輸血をしつつ、たか氏が懸命に鈴木貫太郎氏に声をかけ続け、鈴木貫太郎氏は三途の川から帰り、何とか命を繋ぐ事が出来ました。
医師曰く、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れていたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いだったそうです。(ウィキペディア参照。) この時、体の中に残った弾丸は医師に「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と提案されるも、鈴木貫太郎氏は「いや、このままで。」と生涯弾丸は体の中に残ったままだったそうです。また、鈴木貫太郎氏は生地に鎮座する産土神の多治速比売神を熱心に信仰されていて、二・二六事件での負傷からの本復祝として、たか氏と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。
そのお礼にお参りに来ました」と語ったそうです。三途の川で神さまが”まだ死ぬには早い!”と激励されていたのかもしれません。
一方、鈴木貫太郎氏が襲撃された報を昭和天皇が受けると普段温厚と言われる昭和天皇が、”私の掛け替えのない臣たちに何てことを!”と怒りをあらわにし、安藤輝三たちの反乱軍を鎮圧の命をくだします。安藤輝三氏は投降を決断した仲間が説得するも、責任から「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じず、鎮圧の大勢が決したことを悟り、皆の前でけじめをつけんとピストル自殺を試みます。慌てた仲間が死なせん!と羽交い絞めにし押し止めましたが、安藤大尉の決意は翻らなかったそうです。
また、部下たちから大尉が死ぬのなら一緒に!と号泣され、安藤大尉は静かに部下たちに果たせなかった貧しい人や農村の救済を託します。
「最後の訓示」を与えた後、仲間たちと「吾等の六中隊」の歌を合唱し、安藤輝三大尉は曲が終わった瞬間にピストルを喉元に発射して自決を図るも、陸軍病院に運びこまれ、一命を取り留め捕らわれました。
安藤輝三大尉は事件から3日後の2月29日付で正七位返上を命じられ、大礼記念章(昭和)を褫奪されて、軍法会議で叛乱罪が申し渡され1936年の7月12日に死刑執行されました。歳はまだ満31歳で、家族から受け取った松陰神社のお守りを身に帯びていたとあります。
また下士官たちは安藤輝三大尉のことで、「安藤大尉は、服はいつもよれよれで、決して威張ることのない優しい人でした」と回想され、鈴木貫太郎氏からは安藤輝三大尉が実に惜しい若者だったと言われたとあります。安藤輝三大尉は家庭では物静かだったらしく2.26事件に関わるも、参加している最中は身内に何も知らせなかったとありました。
鈴木貫太郎氏は事件から約1か月余りの4月中旬には回復を遂げて職務に復帰しましたが、老齢により侍従長を退任して枢密顧問官専任となったとあり、また、長年の勲功によって男爵に叙せられ政務に励みます。
こうして鈴木貫太郎氏は2.26事件から生き延び、大東亜戦争にて枢密院議長に就任します。
今回はここまで。次回は大東亜戦争で再び鈴木貫太郎氏と阿南惟茂氏が昭和天皇のため、国のために奔走します。
文責:神奈川県 神奈川のY。