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鈴木貫太郎氏(その5)阿吽の呼吸で陛下を支えた 阿南惟幾氏。

 

2.26事件から無事生還した鈴木貫太郎氏は政治に戻ります。

大東亜戦時に突入

この時、連合艦隊司令長官山本五十六大将や大西瀧治郎氏、源田実氏たちと同じく、鈴木貫太郎氏は航空戦に着目し、昭和天皇さまも指揮官として、状況分析し、航空戦に注目されていたとあります。

鈴木貫太郎氏と山本五十六大将は、海軍兵学校の先生と生徒の関係でもあり、山本五十六大将がブーゲンビルで散った際、国葬で鈴木貫太郎氏が側について見送った仲です。今でも2人がやり取りした手紙や葉書が大切に保管されているとか。

二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返して秩序を重んじ、瀕死の鈴木貫太郎氏の報を知ると、先生を死なせん!!と医師を早くと手配したとあります。

鈴木貫太郎氏は山本五十六大将たちに尊皇や敬愛の精神を伝え、昭和天皇さまの一刻も早く戦に決着をつけ、終戦に結びたいという想いを共有していたかもしれません。

しかし、

日本は最初は勢いあるも、次第に慢心と物資・生産の差でアメリカに追い詰められていきます。海、空戦はミッドウェーから、陸戦はインパール作戦から

戦況を悪化して制空権、制海権とられていきます。

また、山本五十六大将が1943年4月18日
前線視察のため搭乗した航空機が米軍に撃墜され戦死し、鈴木貫太郎氏は会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎から山本五十六大将の戦死を聞くと、驚いた鈴木貫太郎氏が「それは一体いつのことだ?」と問うと、嶋田は憮然として、「海軍の機密事項ですので答えられません」と官僚的な答弁をした瞬間、普段温厚で寡黙な紳士の鈴木貫太郎氏が、穏やかな侍従長から、敵艦を鬼訓練で討ち取った豪将の顔になり、「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!!」と厳しく問いただし、これからの海軍の行く先を案じていたと伺いしれます。

1944年12月、

阿南惟幾氏はこの時、陸軍航空総監部兼航空本部長という立場にあり、特別攻撃隊に関しては、「特別攻撃は決死隊であっても、生還の道は講じるべきである。敵艦への航空特攻のように、死によってのみ任務遂行できる出撃を命じるのは、上官としてあまりに武士の情にかける」と考えでした。しかし、大本営の方針は天号作戦として、

沖縄戦では航空戦を全力を以てことにあたり、陸戦統一作戦が理想と考えていたとあります。

また、陸軍の本土決戦のための戦力温存策には反対であり、特攻には批判的ながら「本土決戦ばかり考えず、航空戦力すべてを挙げて沖縄の敵を叩くべきだ」「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と梅津美治郎参謀総長に詰め寄ったとありました。

硫黄島の戦いでは特攻作戦にて特攻隊を見送り奮戦するも挽回叶わず忸怩たる気持ちを抱え、軍務にあたります。内地から陸軍大臣に、首相に!という声も上がりましたが、阿南惟幾氏は軍人が政務に口を挟んじゃいけないと強く固辞していました。

鈴木貫太郎氏も、1945年の4月、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席して、

若槻禮次郎氏、近衛文麿氏、岡田啓介氏、平沼騏一郎氏、広田弘毅氏が首相に鈴木貫太郎氏に首相を!!と推しました。

この時、鈴木貫太郎氏はとんでもない!!と首をふり、「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。ローマ帝国の滅亡もしかり、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡またしかりである。だから自分が政治の世界にでるのは、自分の主義や信念のうえからみても困難な事情がある。しかも、私は耳も遠くなっているのでお断りしたい。」と答えたとあります。(ウィキペディア参照。)何度お願いしても首を振らない鈴木貫太郎氏についにあの方が動きます。

今回はここまで。

次回はあの方と鈴木貫太郎氏、阿南惟幾氏の奮闘をご紹介します。続く。

文責:神奈川県 神奈川のY。

 


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