阿吽の呼吸で陛下を支えた、 阿南惟幾氏(1887年〜1945年)と鈴木貫太郎氏(1868年〜1948年)をご紹介します。
(鈴木貫太郎氏その6※改めてご紹介その②)
日清・日露戦争にて、活躍した鈴木貫太郎氏は海軍大将へと出世して昭和天皇の養育係をされていた、タカ氏と暮らしている中、鈴木貫太郎氏に驚きの報せが入りました。
1929年、鈴木貫太郎氏は、昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、侍従長になってほしいとあり、鈴木貫太郎氏は一線から退いて予備役となり、枢密顧問官兼侍従長に就任しました。
彼の仕事での振る舞いは、ある時は侍従の人々が気持ち良く動けるよう口煩くなくどっしりと構え、ある時は昭和天皇の相談役で真摯に応えるという感じで、皆から「大侍従長」と呼ばれたそうです。
阿南惟幾氏もこの時、侍従として務めていて共に昭和天皇の側にいました。阿南惟幾氏は鈴木貫太郎氏の采配や務める姿に尊敬したとあります。
※昭和天皇もこの時の侍従コンビに安心感があったのか、その後も2人を気にかけています。
文武両道、陸軍・海軍からの最強の侍従コンビ
そんなおり、日本と諸外国に摩擦が起きてピリピリしてきた中、1930年にアメリカ中心にロンドン海軍軍縮会議があり、海軍の力となる戦艦の数に制限がかかります。表向きは皆で平等な兵力(軍事力)にしようとありましたが、その実、最近日清・日露戦争にて力をつけて来た日本への警戒で抑えようとする腹づもりでした。
この圧に強く反発を覚えた、当時の日本海軍側はこの条約を撥ねつけようとしましたが、昭和天皇の意は他国との摩擦は避けたいところであり、鈴木貫太郎氏も今の日本が他国と衝突するのは危険と海軍に待ったをかけ、条約を受けさせました。
海軍の中には鈴木貫太郎氏に対して不満覚えた様子でした。しかし、この条約は戦艦の制限があるも、小さな艦等は制限が甘いところがあり、そこに気づいた海軍はしれっと軍備増強を行います。
また、当時の日本は他国と摩擦しても強いから大丈夫!と民も軍も構えていて、情勢の危うさに鈴木貫太郎氏が頭を悩ませた様子が伺えます。
また、この頃、純粋な若者達中心に政治家の腐敗や貧富の差がひどく、外国から舐められているのは、政治家の重役が悪い、自分達がとって変わらないと!の思想が流行り、国家主義者・青年将校たちから、鈴木貫太郎氏は「君側の奸(かん)」と見なされて命を狙われることになります。
宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されて、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議された際、鈴木貫太郎氏は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたとあります。
鈴木貫太郎氏は人心を乱す輩には武人としての振る舞いを見せます。
一方、鈴木貫太郎氏は貧富の差や政治家の腐敗について色々と考えていた様子があり、2.26事件の主犯の一人、安藤輝三大尉が鈴木貫太郎氏は君側の奸かどうかと見定める為、鈴木貫太郎氏を尋ねます。
鈴木貫太郎氏は若き将校に国家観や政治について語り、安藤輝三大尉は「鈴木貫太郎氏は西郷隆盛の様な人だ。」と感嘆します。
しかし、若き将校達のクーデターの機運が強くなりその波に鈴木貫太郎氏と安藤輝三大尉が巻き込まれます。
2.26事件です。
今回はここまで、次回は鈴木貫太郎氏その7※改めてご紹介その③)に続きます。
文責:神奈川県 神奈川のY。