ランランさんのブログです。
阿吽の呼吸で陛下を支えた、 阿南惟幾氏(1887年2月21日〜1945年8月15日)と
鈴木貫太郎氏(1868年1月18日〜1948年4月17日)をご紹介します。
(阿南惟幾氏その7)
シナ事変から大東亜戦争に入る中、良く映画でも日本海軍と
日本陸軍が犬猿な演出が出てきますが、当時の日本海軍と
陸軍の食事事情や制服をご紹介したく思います。
日本海軍は主に最初にイギリスの流れを汲み、海軍にいた、
ある航空参謀オヤジ殿曰く、紳士精神を重視されていたとあります。
軍服は紺色と海軍ならではの白の特徴があり、将校の装飾が華やかなきらいがあります。
また、海軍の食事に関しては陸軍に比べて洋食でおしゃれなのが多いです。
一方、日本陸軍はフランスの流れを汲み、途中からドイツ式の流れを取り入れたスタイルとあり、雰囲気からは華やかさより実用さを重視している感じで、軍服もゲリラ戦が出来る色で、野戦重視が観られます。陸軍の食事は現地調達しやすい物や応用で作れるのがメインに観られました。
また航空兵、パイロット達は両軍とも食事に気をつかっていたという話があります。また、どちらもそれぞれの矜持があり、お互いに譲れないところがあったそうです。
※昔、仕事場にいたお爺さま達に海軍、陸軍出身の人がいてお互い意識し合ってバチバチされていたことがあり、そんな時は「同じ天皇陛下の名の下に戦ってた仲でしょう。」と言うとそれもそうだと納得される様子がありました。
昔の陸軍、海軍にも同じよう一致団結してほしかったです。
ここから話を阿南惟幾氏に戻します。
阿南惟幾氏は東條英機氏と確執したあと、中国大陸で中国軍と戦います。
この時、市街地の破壊や食料物資の略奪を阿南惟幾氏は厳禁しました。略奪行為が現地の人達から反感を買う行いと心得、不義理なことを厭う姿がありました。
昨今、人を用いたさい、自分の悪評のため、自分の地位や名声が危うくなった途端、味方に引き入れた人の背中からバッサリと切る不義理な輩がいますが、人の和を大切にした阿南惟幾氏達がその輩を観たら、恐らく怒りで真っ赤になり怒髪天を衝くになったかと推察します。
また、阿南惟幾氏は1942年7月、第2方面軍司令官として満州地方に赴任すると、同じ満州の第1方面軍司令官である、阿南と仲の良いマレー作戦で名声を博していた「マレーの虎」こと山下奉文氏と同日に着任し、勇将の司令官2人を得た関東軍は士気旺盛に、彼らを「東の山下、北の阿南。」と呼び、中国軍相手に活躍します。
満州地方では馬賊や八路軍、国民党がいましたが、関東軍を脅威と感じたのか、今でも反日映画では悪鬼の関東軍として描写される事がしばしば観られます。
阿南惟幾氏や山下奉文氏が関東軍で活躍後、南方の戦線が悪化の一途を辿り、1943年に阿南惟幾氏は陸軍大将になった際に大本営の命令で南方へ向かいます。おりしも、南方では制海権、制空権が敵にとられ、補給線が途切れてしまった状態で、阿南惟幾氏は餓えと疫病、敵の火力に悩まされ何とか対応しようとしました。
何とか反撃作戦で奪回を試みるも、慢心で負けに弱く状況判断が著しい様子の大本営直轄の下だったため、献策が難しく、阿南惟幾氏の指揮権にも制約がかかってしまい、力を思う存分に発揮できませんでした。それでも餓えや病で倒れる仲間達を何とかしようと、現地の植物や魚介類の研究を指示して対応しましたが、軍全体瀕死の状態で、阿南惟幾氏だけではとても対応できませんでした。その後、阿南惟幾氏は1944年12月に航空総監兼航空本部長への異動を命じられます。
この頃、レイテ沖海戦で日本は負け、レイテ島を攻略した連合軍がミンドロ島を皮切りにフィリピン全体の制圧を目指す勢いでした。
焦った大本営は、阿南惟幾氏に豪北、ボルネオ、南部フィリピンを一元統帥させ連合軍に対抗させようとし、阿南惟幾氏もこの地で軍司令官として玉砕する覚悟でした。
この日の阿南惟幾氏の日記には「若者多数を失い、生きて再び皇土を踏むの面目なしと迄覚悟までした身」と無念を滲ませた記述があったとあります。
また、その後硫黄島が米国に陥落され、本土にB29の脅威が迫って来た報せを受け、阿南惟幾氏は「死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ」と奮い立ち、部下にも常々言って聞かせ、戦死した部下将兵に殉じたいとする気持ちを抑えて阿南惟幾氏は東京に向かいました。
※この頃の阿南惟幾氏の想いを想像すると、武人として仲間を偲ぶやるせなさが伺えます。また、指揮系統の大本営が機能しなくなって現場の判断で対応する限界が見受けられ、そこが戦の分かれ目と感じた次第です。
今回はここまで。次回は2.26事件で瀕死から復活した鈴木貫太郎氏をご紹介致します。
(鈴木貫太郎氏その5)
文責:神奈川県 神奈川のY