お久しぶりです!DOJOサポーター中四国支部 コチャコです。
今年、2月末に転職し、3ヶ月余り。やっと新しい仕事に慣れてきたところです。
未経験の職種の会社だったので慣れるまでバタバタしていました💦
派遣での紹介は面接まで全く会社の職種が分からないミステリーツアーのような感じですね。
さて、DOJOサポーターとして関わっている皇位継承問題、山尾志桜里氏の政界復帰の応援、
ウクライナ戦争の行方など日本にとって重大な問題にも刻々と新しい動きがあり、そのたびに不安になったり
希望が見えたり、失望したりと心の中も慌ただしく揺さぶられる今日この頃。
危機的状況の中でどう生きるべきか、何度も読み返している本があるので今回、紹介したいなと思います。
その本のタイトルは『真田太平記』全十二巻!
作者は「鬼平犯科帳」「剣客商売」で知られる 池波正太郎氏
主人公は大阪夏の陣で徳川家康の陣に決死の突撃をしたことで有名な武将、真田幸村の兄、真田信之。
ですが、実質真田兄弟と彼らの父真田昌幸の三人が主人公のようなものです。
物語は真田家が仕えていた武田家の滅亡、本能寺の変の年から始まり、大坂夏の陣が終わった後、
真田家がそれまでの領地信州上田から松代に転封されるまでの約40年間にわたる真田家の戦いを描いたものです。
豊臣、徳川の間で小国真田家は常に生き残るためのギリギリの攻防を強いられます。この時期の真田昌幸の決断力と
軍略が真田家を大きく飛躍させ、真田兄弟も父を信頼しつつ独自の個性と判断力で共に戦い抜き、一度は徳川家康を相手に勝利を収めるまでになります。
その後、関ヶ原の戦いで兄信之は徳川家に、父昌幸と幸村は豊臣家にと袂を分かちます。
真田昌幸と幸村父子は関ヶ原の戦いで敗者の側となり、父昌幸は配流先の紀州九度山で病死。
真田幸村は豊臣家と徳川家の最後の戦い、「大坂夏の陣」で決死の突撃で徳川家康の陣に斬りこみ
家康を追い詰めますが、あと一歩のところで叶わず、自害して果てます。
真田信之はその後、徳川幕府による取りつぶしの危機を乗り越えて真田家を存続させていくのです。
この作品には戦国時代末期の多彩な人間の生きざまや歴史観の描写がとても面白く
特に今のように日本が内外に危機を迎えている状況を考えると、示唆に富んだ文章が沢山あります。
私が心に残った場面、文の一部をご紹介します。
毛利方が信長の死を知ったのは六日の夜であった。(本能寺の変は天正10年6月2日)
「国が肥えていると、頭脳(あたま)の働きが鈍くなるものじゃ」と真田昌幸がこの時の毛利方を評した。
第二巻「秘密」より
さらに、信幸の声は高くなった。(信之を名乗るようになったのは関ヶ原合戦の後)
「よいか。人びとの世界と申すものは、隠密に計ろうとおもえばおもうほど、みずからが掘った穴に落ち込むことになる。」
「申さば、隠密の効目がしだいに薄くなるということよ」
第六巻「家康東下」より
「治部殿(石田三成)は何から何までぬかりなく運ぼうとする。平時の折にはそれも結構であるが、戦には魔性があって、
この魔性に立ち向かい、戦機を得るためには、書状をいじりまわし、政令を案ずるようにはまいらぬのじゃ。」
第七巻「関ヶ原」より小西行長の言葉
「これは、且元(豊臣家重臣 片桐且元)のみではない。
淀の方をはじめ、豊臣家の人びとも且元同様に、
(こたびも、いつしか無事にすぎてゆく……)
ことを期待しながら、その期待を実現するための行動には思いおよばぬ。
一時は繁栄をほしいままにした一団体、一組織の衰弱が此処に在る。
本能的に、おのれの衰弱をさとっているがため、行動ができぬ。
なにをしようとしても、不安がつきまとう。
だれもが責任(せめ)を逃れようとし、今日いちにちの無事に、かろうじてすがりついているのだ。
第九巻「二条城」より
最後の引用は、あの政党や団体のことかしら…というくらい正鵠を射たものと思います。
歴史的出来事を題材にした時代小説は実在した人物に作家オリジナルの登場人物も交えて作家独自の人間観、
世界観を描いたもので、あくまで創作として楽しむものでしょうが、
『真田太平記』は戦国時代に必死で生きた登場人物の人生を自分が一緒に生きているような感覚にさせる
当時のリアルな生活描写に溢れた作品であり、現代の社会問題にも当てはまる鋭い示唆に富んだ内容に、詠み返す度に新しい発見があり、面白さが増幅していくのが飽きない所以です。
もし、興味を持たれたらぜひお手に取ってみてくださいね!