公論サポータ 関西支部の基礎医学研究者でございます。
小林よしのり先生の魅力を何とか伝えたるための作品紹介、第3回目!(超個人的ですが(^_-)-☆)
(今回で最終ですが)「メンぱっちん」の続きです。
最初に、一応ストーリーを追います。メンパッチャーになることを決意した琢磨くんは、まるでプロレスリングのような試験会場に赴き、プロテストを受ける。そして、何とその対戦者は、同じくプロテストを受けにきたガッツ多分であり、二人の試合が開始されるところで、この作品のストーリーは終了!となります<(_ _)>。あっさりしていると思われるかもしれませんが、自分の中では前回までがストーリーのピークでした。
・「メンぱっちん」を読み直したときの当時の感覚との比較
これまでは、当時「メンぱっちん」を読んだときの感覚をできるだけ伝えてきたつもりなのですが、今回、「よしりん独演会」のためにこの作品を読み返すと、やはり子供のときとは異なることに目が行くもので、以下にそのことについて、触れようと思います。
小林よしのり作品に出てくるキャラクターについて(メンぱっちんを例に)
小説であれ、漫画であれ、ファンタジーものでなければ、登場人物には著者の経験が反映されるようです。私見では、小林先生の場合は以下のような感じかと思われます。
1つは、ガッツ多分(多分田吾作)が典型的ですが、手塚治虫がよく用いたスターシステム(別の漫画の個性的なキャラを出演させること。「ブラックジャック」などは、それのオンパレードでした)に沿った登場人物がでてくるということ。当時読んだときには、「脇役だけど強烈なキャラが出てきた~」という印象のみが強かったのですが、彼の場合は、「東大一直線」から「よしりん御伽草子」まで何度もでてくる“人気キャラ”です。おそらく、小林先生の周辺のお友達に、モデルとなる愛着のある人物がいたのでしょうね(^_^)
もう1つは、自己投影。夏目漱石の「吾輩は猫である」は現在でも読み継がれている小説ですが、刊行当時から登場人物のモデル人物探しが、結構話題になったようです。例えば、理学士(理学部を卒業した人に相当)の水島 寒月は、漱石門下生の物理学者 寺田虎彦だと言われています。しかし、それ以外の人物については、「漱石書簡集」で漱石自身が述べておりますが、「モデルなどは存在せず、自分のある部分が投影されたようなものだろう」とはっきり言及しております。これに照らすと、小林先生が意識したかどうかはわかりませんが、主人公の切磋琢磨、小早川拳、そして琢磨くんの勉強のライバルである桜井秀一は、小林先生のある部分が投影されたキャラクターなのでは?と自分は思いました。
「ゴーマニズム宣言」を読んでいると、“小林よしのり”という人の生き様をまざまざと見せつけられるわけですが、自分の見立てがまあまあ正しいとするのならば、幼少期の小林先生は上品で純真なところがあり、この部分は、切磋琢磨くんに相当するのだろう。つぎに、平時の小林先生は、桜井秀一くんのようにまあまあ人に気を遣える常識人的なところ(しかも”嫉妬”などの実に人間くさい感情も表現しているところ)があり、それが投影されているのだと思います。ただ、論争などで戦っているときには、鷹のような目と蛇のような知恵で勝負に対してギラギラしているので、それは小早川拳に投影されているように、自分には思えます。
でも、3人に共通するのは“地頭が良い!”ということであり、それはこの作品でスポ根といいながらも、結構頭脳戦を展開したり、将来の生き方の話がでてくるなど、現在の作品につながっていく“土台”のようなものは随所でみられるのでは?と、自分には思えました。
“小林よしのり”その人の出演について
「メンぱっちん」を読んでいて率直に思いましたのは、よしりん的モノローグで展開する「ゴーマニズム宣言」は、突如登場したものではない、ということです。実はこの段階で、小林先生は結構作品中に出てきていたのですよね。しかも、結構世相を反映していて、この書き方は、明らかに当時人気のあった『プロレススーパースター列伝』(少年サンデー連載)のオマージュで、アントニオ猪木の代わりに小林先生が“解説”を行うというのもの(「わたしなどは、」「ゆーまでもない」など結構特徴的な言い回しは、きちんと採用している)。取り上げる話題も結構様々で、今回取り上げたのは、2点。
1つは、漫画における主人公の交代についてで、ご本人「いいかげ~ん」と書かれていますが、ほぼ「マガジン」の人気作品を例に上げているところは、さすがです(一応書いておくと、①「悪役ブルース(峰岸とおる)」:ザ・カミカゼ→タイガーマスク、②「おそ松くん(赤塚不二夫)」:6つ子→イヤミ、③「天才バカボン(赤塚富士夫)」:バカボン→バカボンのパパ、④「巨人の星(川崎のぼる)」:星飛雄馬→花形満、⑤「コータローまかりとおる!(蛭田達也):コータロー→天光寺、⑥「明日天気になあれ(ちばてつや)」:向井太陽→ゴルフボール?」。もう1つは、編集者や自分のスタッフをしっかり登場させているということ。やはり、漫画作品というものは、もちろん中心は作家ですが、当時から「(作品は担当編集者やスタッフの人たちとの共同作品である」、ということをかなり意識されていたのでしょうね(実に、常識的な感覚かと思います)。
あと、おもしろいのは、当時から隙間に細かい“遊び”を入れられ、ここで示した『面打スポーツ』という新聞は、「ゴーマニズム宣言」の欄外のようによくよく読むと、笑ってしまう情報が満載なのは、個人的にはかなりツボでした(この図にはないのですが、「京都大学面打振興会、ペッタン協会の子供たちに敗れる!」は、なんとなく事実を書いていそうなので、こういう細かいところに目が行き届くのは、さすが!と唸ってしまいました)。
最後に…自分がよくわからないことについて
進化学者ダーウィンの「種の起源」第6章に、「学説の難点」という項目があります。これは、自分の展開した進化論では説明が困難である事例をあえて挙げているもので、この手の学説は、ほとんどは自説の利点についてばかりを強調して、例外(都合の悪い部分)については、あえて触れない場合が多いので、非常にめずらしくフェアな態度として賞賛されました。そこで、自分もその態度にならって、「メンぱっちん」を読んでいて、よくわからなかったことについて、少しだけ触れて終わることに致します。
それは、切磋琢磨くんは、超秀才でまっすぐに育った子ですが、母親とは死別しており、背負っているものがある、ということ(そして、お父さんの父権が圧倒的に強い)
私見では「おぼっちゃまくん」にも共通するものがありまして、茶魔は大金持ちで、友達にも恵まれているけど、母親とは死別しています(そして、同じくお父さんの父権が強い(見た目のキャラは、全然違いますが)。このような設定がなぜ入ってくるのかは、実は自分、よくわかっていません。もしかしたら、すべてを持っているキャラクターなどというものが存在することは不可能で、もしそうしてしまったら、キャラクターの魅力が損なわれるからか?ということなのかもしれません。が、これは疑問のまま残して、終わりにしたいと思います。
以上で、「メンぱっちん」の紹介を終わりますが、小林先生の代表作かどうかとは別に、自分にとっては、非常に重要な作品でございました。
いかがでしょうか?
(次回に、続く)