中四国設営隊長しろくまです。

「マスメディアと芸術 その3」更新しました。

今回は、ヨーロッパだけでなく、当時の明治時代の日本も加わります。

どの様に関わっているのかまた違う視点から考察します。

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【サロンの大衆化】

「サロン・ド・パリ」というのはフランスの王立絵画彫刻アカデミーの会員のみが、公式美術展覧会を開催していました。フランス革命後から古い制度が廃止され、新たに芸術院が設立したが、ここのメンバーの多くはそのまま旧アカデミーの会員であった。

以前と大きな違いは「サロン」の展示会に「自由・平等」に基づいてアカデミー会員でなくても誰でも参加できて出品できるようになりました。

 

 

次第に応募が激増し、必然的に「サロン」の審査制度を設けることになり、内容も画一化をもたらすことになった。「サロン」は毎年開催に出品点数も3,000点以上で、それと同時に落選作品も多く生み出した。19世紀になると「サロン」に入選しないと一人前の芸術家として認められないというようになりました。

そして、市民は選ぶ基準を持っていなかった為「サロン」の判定評価を基準にしていたので、その結果、「サロン」を支配するアカデミーが社会的権威を持つようになった。

その頃の作品は「伝統的な手法で、一般的にわかりやすい」作品が並んでいて、作品が”大衆化”に傾向し、逆に新しい表現や試み、手法の変化や意欲的な実験はそこでは受け入れられなかった。

アカデミーは17世紀から存在していたが、画一的、形式化という意味合いを含んだ「アカデミスム」という言葉が1840年代前後から登場する。

そして、軍隊用語であった「前衛」が、美術の世界で前衛が反アカデミスムと示されたのもこの頃であった。

新しい表現を目指す芸術家たちに「アカデミスム」に対して反発と不満が起こり、クールベが反逆を起こし、その後は画家マネが引き継ぎ、そして印象派へと流れになった。

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【ジャーナリズムと美術批評の多様化】

この頃から、ジャーナリズムの隆盛と美術評論家が登場し、新聞、雑誌から一般公衆のための新聞、雑誌が18世紀後半〜19世紀にかけ多数創刊される。センセーショナルな三面記事や、連載小説などが掲載されていた。

美術批評にも、古くからの伝統的表現を擁護する立場もあれば、伝統的なものを否定する新しい動きに賭ける批評家もいて、一つの作品に対して評価が真っ二つに分かれ対立することも珍しくなかった。

当時、社会的に大きな権威を持っていたアカデミー派とそれに対抗して出てきた革命的、前衛派との対立が大きく賑わせていた。芸術に様々な価値観が共存する多様化の時代でもあった。

 

かつての王侯貴族や聖職者から一般市民にかわり、経済的にも余裕のある層「ブルジョワ」が主導権を握るようになり、彼らが芸術活動に君臨するようになりました。

この状況に対し、詩人批評家のボードレールが美術評論「1846年のサロン」に『市民諸君へ』にこう述べている。

『諸君は多数であるー数であり、知性であるーそれゆえに諸君は力でありーすなわち正義である(中略)

諸君は都市の統治を手中に収めた。そしてそれは正当なものである。諸君こそ力であるからだ。

だが諸君はまた、美を感じ得るようにもならなければならない。というのは、今日では、諸君のうち誰も能力なしには生きられないように、何人と言えども詩なしに生きることは許されないからである。』

新興市民へ、新しい支配者層に対する芸術保護の訴えでもある。

 

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【当時のヨーロッパと日本の情勢】

ドイツ:1890年ビスマルク失脚

イギリスとドイツ 植民地をめぐる争いが激化

フランス:1894年ドレフュス事件が起こる。

日本:1894年 日清戦争

イギリスとフランス:1898年のファショダ事件を機に和解。

イギリスと日本:1902年日英同盟を結ぶ。

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印象派の画家たちは社会からの影響と、個々の考え方の違いから分離し、1886年の第8回をもって終了しました。

この時に印象派を受け継ぐ新しい2つの動きがありました。

後期印象派(ポスト印象派)と新印象派です。

一度はどこかで見たことがある、個性が強い画家が多く登場します。
画家達とそのまわりとの関係など見ていきます。

 

【 後期印象派(ポスト印象派) 】セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレック

・ポール・セザンヌ(1839-1906)南フランス

「りんごとオレンジ」ポール・セザンヌ (1895-1900頃)
「自然を円筒形と球体と円錐形によって扱いなさい」と語り、キャンバスの上に様々な角度からの視点から再構築するという構築主義の手法を生み出しました。
これが後に影響を与えるのは、ピカソ、ブラックへとキュビスム(立体派)へ受け継がれます。

 

【文豪ゾラとの交流】・・・「マスメディアと芸術その2」に登場

中学時代に学校でいじめられていたゾラを庇ってセザンヌは袋叩きにあう。ゾラは感謝の印に籠いっぱいのリンゴを贈って二人は親友になりました。セザンヌは画家を志してパリに出るも生活が苦しく、父親から仕送りを受け続ける。ベストセラー作家になった親友ゾラから援助を受けながら細々と生活をしていたが絵が売れるようになったのは50代に入ってからだった。

 

・フィンセント=ファン・ゴッホ(1853-1890)オランダ

「夜のカフェ・テラス」フィンセント=ファン・ゴッホ(1888年)オランダ

画家を志し画商の弟テオを頼ってパリに赴く。印象派、浮世絵から影響を受けながら独自の鮮やかな色彩で自身の精神世界を反映させる、素早く分厚く塗り上げる力強い手法を駆使。画家としてのキャリアは10年ほど、生前に売れたのは1枚だけ。「夜こそ色彩が豊かだ」と語り夜を描くのを楽しんでいた。他、ローヌ川の夜も空に瞬く星は正確な星の配置を分析して描かれています。

この頃、フランス革命と同じく19世紀も芸術創造は自由を得たが、高い代償として生活の安定を失うことになる。社会から受け入れらる保証は全くない。その結果、作品が売れず生活に苦労する芸術家が多数生まれてきた。

 

【モンマントルの画材屋タンギー爺さん】

侠気のある人物。画材の代金を支払えない画家の代わりに作品を持ってきた時には嫌な顔をせず黙って受け取っていたという。店内は、絵具とキャンバスと並んでセザンヌとゴッホの作品が置かれていた。

 

・ポール・ゴーギャン(1848-1903)フランス

「説教のあとの風景」ポール・ゴーギャン(1888年)フランス

証券マンで趣味で描いていた作品が入選し、35歳で仕事を辞めて画業に専念する。絵は売れず極貧で生活し1888年にゴッホと共同生活を始めるが2ヶ月で破綻する。43歳で個展で成功し、それを元手にタヒチに渡る。そこで代表作の『かぐわしき大地』を描く。
2年後、帰国して個展を開くが散々な結果に。再びタヒチに戻るが、タヒチの文明化に進む現実に失望する。最愛の長女の死に直面し『我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々は何処へ行くのか』を描き上げ自殺未遂事件を起こす。

ゴッホとゴーギャンは、大胆な構図の日本の浮世絵から影響を受け「説教のあとの風景」の画面にもはっきりとその影響が表れている。画面手前に大きく描き、対象を小さくクローズアップして見せる手法。

他、ロートレック: 版画家(フランスのポスター芸術で活躍)

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【新印象派】

・ジョルジュ・スーラ(1859-1891)

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」ジョルジュ・スーラ(1884-1886)フランス

光学を研究し尽くし色彩研究から点描画法を生み出した。絵具を混ぜずに鑑賞者の網膜上で混合させる「視覚混合」によるもの。線にも研究し、上向きの線は陽気さ、水平は安定感、下向きは悲しみを醸し出すと考えました。『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は第8回印象派展に出品し大評判で、新印象派という言葉を生んだ記念碑的大作です。

 

その後、世界各地からこの芸術の坩堝パリに独立心の強い芸術家たちが集まってきます。

ピカソ、シャガール、モディリアーニ、ベラルーシ、ムンク、スーティン、

そして画家を目指す多くの日本人留学生300人がパリにやってきます。

 

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【日本の美術学校の誕生】

日本で最初に美術学校が設立されたのは、東京虎ノ門の工部大学校の構内に1876年11月6日に設立されました。学科は画学と彫刻の二科(油絵と石膏)、教師はイタリア人3名。御雇外国人教師が設置と同時に授業が開始された。

それと音楽の方は、東京音楽学校の前身である音楽取調所の設置が1879年。アメリカ人音楽家3名の教師が招かれて来日。

明治初頭では、美術は芸術である以上に技術と考えられていたこと、事実、工部美術学校の規則にはその目的として「美術学校は欧州近世の技術を似て我日本旧来の職風に移し、百工の補助となさんがために設けるもの」であると明記されている。

音楽取調所が「文部省」の所管で、工部美術学校はその名称からも「工部省」に属する工部学校の付属施設として設置された。

この工部学校は、「大いに工業を発展させる」ことを目的に謳い上げ、学科も土木、機械、電信、建築、化学、鉱山開発等、実利的な技術全般にわたっていた。

文明開化、殖産興業の理念に基づいて最新の西欧技術文明を導入するために設置され「美術」はその技術導入の補助の一役を担わされていたのである。

 

後に、西欧文化を取り入れる日本を見たイタリア人の忠告と、当時ヨーロッパは伝統的アカデミーから脱し、新しい表現の印象派へ移り変わっている時に、日本はヨーロッパのアカデミーを目指し、取り入れるという「歪み」が現れてきます。

日本も十分関わるところなので、ヨーロッパと日本も一緒にどの様な時代背景だったのか見ていきました。この流れから見ても今と結びつくところがあります。

明治時代の文明開化で西欧技術を早急に取り入れていた様子から、技術習得に御雇外国人など美術学校の創設の初期段階を見ていても無理があったように思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

また更新しますのでよろしくお願いします。