中四国設営隊長 しろくまです。
皆さま、
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
昨年のコロナの流行から、今年に入ってもマスコミの報道は
「速報、感染者数〜名」と連日続いています。
マスコミにはある特定の決まった考え方と目的があり「感染者」「自粛」など決まった言葉を使用しています。
何度も繰り返し使いまわされることによって、視聴者はその言葉から、他の多面的な考え方が無くなります。
国民に対し「健全な危機意識」を植え付け、国民全体がウイルスと戦うことこそが正義のような社会になりました。
本来なら報道は両論併記して、何かと比較したり、科学的にデータと関連させて考えたりと、
それを自分で考えて判断する、その個人の考え方や自由を奪われていることです。
マスコミに対しておかしいと思いつつ、その考えも無くなることは、
マスコミが何度も使いまわしている都合の良い常套句によって、他に何も連想しなくなり、人々の語彙が失われていき創造性が失われ、その言葉の貧しい使い方がいかに危険かということを自覚する必要があります。
このような似たことは過去の歴史からも同じような事がありました。
作家・ジャーナリスト「カール・クラウス」(1874-1936)は、
マスメディアについて「言葉の選び方の自由と責任と倫理」を説いてます。
なぜ、そのようなことを言われたのか?その当時は、言葉には自由と責任と倫理が無かったということなのか?まさに現代の問題に共通していることが当時の時代の出来事から考察していきます。
「ジャーナリズムの発達」
ジャーナリズムの言葉が英語で使われるようになったのは、1830年代で、フランス語ではもっと早く1770年代、フランス革命以前に「ジュルナリスム」という言葉が使われていました。
このフランス語が19世紀になってから、英語に取り入れられ「ジャーナリズム」という新語が生まれました。
この言葉が登場したということは、一般公衆のための新聞や雑誌が18世紀後半〜19世紀にかけての時期に数多く創刊されました。
1772年 イギリス「モーニング・ポスト」
1785年 「タイムズ」
1821年 「マンチェスター・ガーディアン」
1777年 フランス「ジュルナル・デ・デバ」
1826年 「フィガロ」
他、ドイツやスイスにも同時代に多数創刊されています。
情報化時代の始まりで、今日の「新聞」の基礎がここから始まっています。
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「ジャーナリズムの腐敗」
1914年8月、第一次世界大戦が起こった時、当時の新聞は熱狂し愛国心を煽り、
新聞が扇動し、それに従って戦争が改変され、戦争が新聞の比喩と要求に従っていました。
第一次世界大戦後、戦後成金が多く現れ、ジャーナリズムの腐敗と政治の堕落が進む。
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この頃、1907年にウィーンにいたヒトラーは、ウィーン美術アカデミーに受験するも不合格となり、
その年の末に最愛の母親を亡くし、翌1908年に再度アカデミーを受験し結果は不合格。
その頃ウィーンで転々としながら数年過ごし、やがてウィーンを去りドイツ軍に従軍し政界入りした。
1933年にヒトラーが政権につき全権委任法が成立し、ナチス独裁が始まる。
ヒトラーの誕生日を祝って新聞は「救国者」と褒めたたえ、ハーケンクロイツの旗がドイツ全土になびいていた。
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「退廃芸術政策」
1937年に「退廃芸術政策」を実行し「健全な判断を持った民衆」へ向けて「退廃芸術展」を開催。
モダン・アート全般を堕落したものとみなし、ユダヤ人の作品と、新しい表現の「印象派」「フォーヴィスム」「キュビスム」「抽象絵画」「シュルレアリスム」「ダダイズム」がことごとく「退廃芸術」とみなされました。
かつてウィーン美術アカデミーに合格できなかったことでヒトラーは自分が理解できないもの、気に入らない新しい表現を徹底的に弾圧し、伝統的・古典的なルネサンスやバロックなど没収し自分のものにしていました。
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美術館から没収された絵画約5000点,版画1万2000点ともいわれている。作品は焼却・売却され、見せしめとして「退廃芸術展」の名でドイツ各地を巡回し、作品は乱雑に扱われ、壁には作品を中傷する罵詈雑言のラベルが付けられていました。
その展示会には入場者数200万人を超えていたと、当時の印象派以降の新しい表現を「堕落・社会や民族感情を害するもの」というレッテルに疑問を持たなかったこと、それだけ一般大衆に洗脳という全体主義が拡がっていました。
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ドイツ・ナチス政権下では芸術活動ができないと亡命した芸術家は多く、またその中には命が危うい中でも作品を通して抵抗を示す者、芸術家がいたこと、反ナチスの作品は多く制作されました。
その中の一つ、1937年パリ万博のスペイン館にピカソの「ゲルニカ」が展示されました。
スペイン内戦でイタリア軍とナチスドイツが、都市ゲルニカを無差別爆撃し多くの市民が犠牲になったことを描いた大作。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」1937年
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「オーストリア併合」1938年
大観衆の中、ヒトラーはオープンカーに乗り、かつて自分を拒んだウィーンから熱狂的な歓迎を浴びながらウィーン凱旋を果たしました。
ここから黄金時代のウィーンは終焉に向かっていきました。
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ここまでの流れの大きな項目の中で、
なぜジャーナリズム、メディアは大きく発展したのに腐敗したのか?
政治と戦争に影響を与えるまでになったのは何か?
どうしてヒトラーのウィーンの凱旋を民衆は歓迎したのか?
なぜ芸術家、作家など多くの芸術作品は弾圧されたのか?
その中で、人種、芸術家たちが抵抗し弾圧されたことは、
今の個人の自由が奪われていることと共通していると思います。
また、世紀末ウィーンの芸術と差別とメディア、
ヒトラーと日本の関わりについて書いていきます。
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最後まで読んで下さってありがとうございました。
「マスメディアと芸術」、メディアと芸術の変遷を時系列に読めて面白かったです。
次回も楽しみにしています。
佐々木さん
コメントありがとうございます。
メディアと芸術という視点で、その時代の出来事から多くのことを学ぶことができると思います。次のブログも、どうぞお楽しみに!