DIYこと村山です。

世の中がコロナ騒ぎで大変なことになっています。私の職場(病院の付属施設)も、「マスクがない」・「アルコールがない」・「当分の間、外部からの面会は謝絶」・「職員は出勤前に検温する」などバタバタしています。政府の初動の悪さと泥縄な対応がそもそもの原因だと思いますが、ウイルスは人種を選びませんし、それこそ忖度もしてくれません。兎にも角にも、自分の身は自分で守るしかありません。基本的な感冒対策(手洗い、うがい、消毒、不要不急の外出はできるだけしない、人込みを避ける)を徹底するしかありません。

そんな騒ぎの最中、2月23日に天皇陛下が還暦を迎えられ、誕生日の会見をされました。記者とのやり取りで「多様性に対して寛容の心を持って受け入れなければならない」とおっしゃっています。ネトウヨのようなごく一部の人たちは別として、記事を読んだ人の大半は「その通り。国家や社会を構成する人たちが多様になってきたのだから、様々な違いはあっても受け入れないといけないね」という感想を持ったと思います。私もそのように感じましたが、「言うは易し、行うは難し」だとも思いました。以下、具体例を挙げて書いてみます。

私が住む徳島県は「関西の台所」と呼ばれ、農業が盛んな土地です。県都の徳島市とその周辺の市町村には多くの農地があり、ニンジン・キャベツ・サツマイモ・レンコン・イチゴ・スダチなど多くの野菜が栽培され、京阪神を中心に出荷されています。しかし、徳島県は全国でも屈指の高齢化と過疎が進む県でもあり、当然ながら農業に従事する人も高齢化が進み、人手も足りていません。その穴を埋めるように、技能実習生がアジア圏から多く訪れていて、農作業に従事しています。近所のスーパーでは、実習生らしき人が数人で大声で喋りながら買い物をしているのをよく見かけます。技能実習生は一定の期限が来れば母国に帰ることになっていますが、入管制度が改定され、そのまま国内に留まって労働者として働く道もあります。

某政権は「移民」という言葉は使いませんが、既に世界第4位の移民大国になっているのは周知のとおりです。移民の存在は諸刃の剣です。所得水準が高く、人件費が高く推移する先進国において、「安価な労働力」として移民はありがたい存在です。戦後、ドイツが飛躍的な経済成長を遂げた要因の一つが、トルコなどの中東地域から出稼ぎに来た「ガストアルバイター」と呼ばれる移民でした。「ガスト(Gast=お客)」の名の通り、当初は一定期間だけ来て母国に帰ってもらうはずでしたが、社会保障が充実して生活がしやすい先進国に留まりたい労働者が続出し、合法・不法を問わず残留するようになりました。移民は、言葉だけでなく、生活習慣から文化まで大きな違いがあり、社会にうまく適合できない人も出てきます。低所得で過酷な労働をさせられ、社会から疎外されて孤立してしまう人が続出し、犯罪や暴動なども増加しました。

日本でも「特定技能」に基づく在留資格が制度化され、「ガストアルバイター」が名実ともに日本国内で様々な仕事に従事するようになります。もちろん、ネトウヨが唱えるような「排斥」という発想を持って反対するのは言語道断です。少子高齢化で人口が減少する国家と社会を維持するためには、最終的には移民を受け入れ、日本国民として遇するしかないのです。しかし、「ガストアルバイター」としての移民受け入れは愚策でしかありません。「安く使い倒す労働力」として経済活動の頭数にすることは、かつてドイツをはじめとしたヨーロッパ諸国が歩んできた道をそのままなぞるだけです。

「保守」の立場で考えるなら、「移民を単なる安い労働力として国内に入れてしまえば、国や社会の秩序を乱し、混乱させてしまう。本当に移民を受け入れるなら、日本国民として国や社会に取り込まなければならない」というのが答えでしょう。なし崩しで移民を受け入れ、民間企業に管理させる、という某政権の一連の施策は「売国」以外の何物でもありません。天皇陛下がおっしゃった「多様性に対して寛容を持って受け入れなければならない」というお言葉は、なし崩しで「ガストアルバイター」を入れてしまうことによって生じる「社会的な疎外(ソーシャルアウトクルージョン)」や「それに伴う貧困、犯罪」などへの憂慮の現れなのかもしれません。

「寛容」という言葉は「リベラル」の語源とされ、本来の「リベラル」は「国家や社会が様々な属性を持つ人に対して寛容さを持つ」ことです。一見、良さそうに見えますが、「寛容」ほど難しいものはないと私は考えています。言葉も考えも文化も生活習慣も違う者同士が近所で生活するのは、それだけで大きなストレスです。先に出てきた「スーパーで大きな声を出して歩き回る外国人」を見て、「同じ地域社会で生活する者同士だから、寛容になろう」とは私は思いません(笑)。同じ日本人でありながら「田舎の人間の面倒臭さ」が嫌な「都会出身の私」が移民に寛容になるまでには、相当に高いハードルを越えなければならないと思われます…(^_^;)

自分が所属している小さな集団(職場、地域活動など)の中ですら寛容でいられないのが、私たち「庶民」の本音です。「あいつは気に入らない」とか「こいつは使えないやつだな」とか、自意識やエゴが出てきて、不協和音が生じます。そういう時に「寛容さ」を追い求めると、かえって衝突が増えるような気がします。まずは自分自身を省みて、「自分の言動は本当に正しいのか」・「自分の都合を他人に押し付けていないか」・「他人を傷つけるようなことをしていないか」を検証してみます。そうすれば、自分の至らないところに気づき、他人にあれこれ求めることは減ってきます。小さな「気づき」の積み重ねの結果、「寛容」になれば良いと思います。そこまでの道のりは長いですが、その第一歩として「自己を省みる」ことから始めたい、と誓う今日この頃であります。