中四国設営隊長しろくまです。

前回の続きから、当時のマスメディア(新聞、雑誌など)が、

どの様なことが書かれていたのか、第一次世界大戦の前に少し遡ってみて、

メディアと人々、芸術との関わりを見ていきます。

 

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「世界最初の個展を開いた反骨の画家」

 

1855年にパリで初の万博が開催されることになり画家のクールベが、万博に出品する作品のうち「オルナンの埋葬」と「画家のアトリエ」の二点の大作が審査員から拒否されました。

当時の絵画の主題は、宗教的、伝説、威厳ある貴族を描くことが常識だったのが、クールベが描いたのは現実の世界の一般庶民の暮らしを描いていました。

絵の中に、名もなき一般の人や普通の風景を描くことは、当時では考えられないことで、それは非常識なことでした。

ギュスターブ・クールベ「オルナンの埋葬」1849年

作品の一部を拒否されたことに激怒し、万博の近くで落選した作品を含め、四十数点の展覧会を開きました。

会場を設け、一般のお客さんに呼びかけ、入場料やカタログなど、個人で個展を開くのはこの時が世界初のことでした。

クールベが、権威あるアカデミズムに反抗したことが、後の印象派へと続いていきました。

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「19世紀のフランス」

ヨーロッパ全土で戦争や動乱が続く中、1871年に普仏戦争に敗れて以来、フランスはプロイセンに賠償金を支払い、金融危機に陥っていました。

 

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「絵画の流れを変えた印象派」

 

1874年4月、パリの美術界で絶対的な権威を持っていたサロンとは異なる、新しい独自の展示会を開いたピサロ、モネ、ルノワール、ドガ、シスレーの画家たちが、第1回印象派展を開く。

主題はパリの人々の生活や風景を描いていました。ところが展覧会の絵を見た人たちからは酷評で、未完成ではないのか、眼の病気だと非難を浴びた。

クロード・モネ「印象・日の出」1872年

クールベから始まり、その流れに大きな影響を与えたのは、日本の浮世絵と写真の登場が最も大きく、浮世絵の大胆な構図が多くの画家たちに衝撃を与えた。

それまでは額の中で収まる、ある部分を切り取るような絵で、画面の枠の規制が強く、それとは違って日本は、枠の外から柳や枝垂れの一部分が見えるように枠の規制というのが無く、余白、空間が続いている「連続性」があり、ヨーロッパは枠の中で収まる「完結性」という違いがあります。

そして写真では表現できない別の表現を自然の光の移ろいと見た時の印象、感覚を描いていました。

 

1886年5月、第8回印象派展で出品された点描画のスーラとシニャック、
モノクロームを描いたルドン、ここで印象派は終焉を悟ったと言われています。

1回目の展示会から、8回目の展示会まで12年、この第8回を最後に幕を下ろしました。

その後、印象派から影響を受けた次世代の画家たちが現れ、それが現代絵画の礎となりました。

 

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「19世紀フランスの大ベストセラー」

 

1886年 エドゥアール・ドリュモンが刊行した『ユダヤのフランス』

出版後1年で6万2000部を売り、1914年まで200版と重ね、

19世紀フランスの最大のベストセラーになった。

この著書の中で、この国の社会の全てをユダヤ人が支配していると主張し、

そして、その不祥事や災難は全てユダヤ人のせいだと、反ユダヤ主義が高まっていきました。

人々は、さまざまな社会問題に対して不安を感じていて、その原因や責任は、

全てユダヤ人のせいだと向けていって、当時の読者が「あなたの本のおかげで全てがわかりました。」

という手紙が著者の元に殺到していたという。

 

200版まで重版されたことは、多くの国民に広がっていたことが想像ができます。

この本は第二次世界大戦後、反ユダヤ的出版物は制限され、今日ではこのような本は眼に触れることはなくなりました。

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大ベストセラーになった「ユダヤのフランス」刊行と、最後の第8回印象派展が同じ1886年。

当時の印象派の作品の色彩について「人種」や社会問題を絡め、ユダヤ人は色彩異常だとレッテルを付けて語られていました。

 

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「フランスの国論を二分する ドレフュス事件」

 

1894年12月、フランス陸軍の大尉であったユダヤ人のアルフレッド・ドレフュスは、スパイ容疑で逮捕され、軍法会議で軍籍位階の剥奪と終身禁固の刑を言い渡された。いわゆるドレフュス事件である。

罪状は、ドレフュスがフランス陸軍の機密をパリのドイツ大使館に売り渡したというものであった。

ドレフュス事件の裁判

身に覚えの無いドレフュスは、法廷で終始、無罪を主張し続けたが、ドイツ大使館の屑箱の中から発見されたメモの筆跡がドレフュスのものと判定され、それでも無罪を主張し続け、フランス内で残された妻と兄が中心になって、ドレフュスの無罪を証明するため真犯人探しが進められた。

この後が大変なことに、1897年にピカール中佐が、ドイツ大使館と内通していたのはドレフュスではなく、エステラジー少佐であると突き止めた。

エステラジーはハンガリー貴族の末裔で、素行があまりかんばしくなく賭け事や生活が派手だと、ユダヤ人財閥に接近したこともある人物であった。ピカール中佐は将軍に申しても言い分を取り合おうとせず、ピカール中佐は左遷されてしまう。

 

有罪から再審することは軍の威厳と名誉に関わるとの判断でピカール中佐の口を封じ、それに納得しなかったピカール中佐は、弁護士に打ち明け、弁護士が大物政治家を介して陸軍省に事実調査を求めがた、陸軍の答えは「犯人はドレフュスに違い無い」と言うだけだった。

この頃、パリの右翼系新聞は連日のように「反ユダヤ」を叫ぶようになった。

「売国奴のユダヤ人、ドレフュスはフランスを売って、名誉あるフランス陸軍を汚したのだ」

というのが右翼系新聞に共通した論調で、事件の顛末を知らないはずの新聞がにわかにこのようなユダヤ主義を唱え始めたのは、陸軍上層部からの働きかけがあったことをうかがわせるに十分であった。

 

新聞の論調に煽られ、フランスの一般市民の間にも反ユダヤ熱がいやが上にも高まった。

休職されていたエステラジーは、容疑を晴らすため自ら進んで取り調べに応じ、軍法会議で審議のないまま無罪になった。このことで、ドレフュスの無罪を主張する方は大きな打撃になった。

さらに世論の大部分がこの判決の勢いに乗り「売国奴ユダヤ人」の声が大きくなり、ドレフュス擁護派はもう挽回することが適わない状態になった。

 

【文豪の反撃】

エステラジーの判決が出た二日後、パリの新聞「オーロール」朝刊に

「私は弾刻する」という大見出しで、文豪エミール・ゾラの告発文が掲載された。

オーロール紙の扉

その告発文は、フランス共和国大統領に宛てた書簡で、そこには陸軍幹部を一人一人名指しで挙げて、軍部の不正を糾弾し、ドレフュスを擁護し無罪であると主張した。

フランス中を震撼させたこの日の朝刊は即日30万部を売り切り、ゾラは陸軍を誹謗したことで告発され、裁判所から禁固1年、罰金の刑を言い渡された。ゾラはイギリスに逃亡したが、ゾラの告発文をきっかけに、ドレフュス事件に対する流れが変わり、最高裁で再審する決定が下された。

その後は有罪になったが、最終的にドレフュスの名誉を回復するまで1906年に無罪を勝ち取った。

このドレフュス事件からフランスの国論を二分し、擁護派と反対派がパリの町でお互いに誹謗し合う騒ぎになっていた。

 

画家達の間でもその影響はあり、亀裂が生まれてしまうことになった。
印象派の中で、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ギヨーマンが反ドレフュス、反ユダヤを表明し、モネ、シスレー、シニャック、カサックは新ドレフュス、新ユダヤの立場を取った。

印象派の画家たちのまとめ役だったピサロは、祖父がユダヤ人であり、友人であったドガから距離を置かれるようになった。実際にピサロが「ユダヤ人に死を!ゾラを打倒せよ!」と叫ぶ暴徒たちに出会すこともあったという。

 

このドレフュス事件はなぜ起きたのか?その原因は今日でも明らかになっていない。

 

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一旦ここで区切ります。

この後、続きはまた書きます。

 

ここまでの流れを見ても、当時の書籍、新聞の情報の扱い方が公正・中立ではなく、

人種差別や国民感情を過剰に煽る内容の記事だということがわかりました。

そして、ゾラのような著名な人が意見を表明することは大事で、そこから流れが大きく変わることもあると、そしてドレフュスのように誰かが無実の罪を着せられるかもしれない、現代でも起こりうることだと思います。もし自分が当事者になったらと考えることもできると思います。

最初の頃の印象派は、作品は評価されず世間からの風当たりが強いのは、

今回の印象派に限らず、多くの表現者、芸術家は困難な状況の中で表現の自由を勝ち取ってきたのだと思います。

最初にあったクールベの個展の話は、地方の地元でゴー宣道場を初開催する時、

とても励みになったエピソードです。

様々な出来事を見て印象派が分つことになったのは心が痛みます。

過去の歴史から学んで同じ過ちを繰り返して欲しくないです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。